ねえ、

日記

誇りについて

誇れる自分になりたい、と思った。

何も無いのだ。誇れることが。私はこういうことができる(だから魅力的である)とか、こういうことを頑張っている(だから存在するに値する)とか、そういうのが一切無いのだ。存在する事に対する後ろ盾が無い。

存在している事が申し訳ないから、なるべく他人の利になる行動をして、認知されようとする。そうして得た認知は私が役に立たなくなった時点で放棄される。だからいつまでも恐怖が拭えない。役に立たない奴だと思われるのが何よりも恐ろしい。

他人がどうしたら居心地よく過ごせるのか、そのためにはどんな私でいたらいいのかそれを考え振る舞う術だけはよく知っているつもりだ。相手の性質、自分と相手の立場や年齢を考慮して好かれそうな振る舞いをする。そうして、私はどこにいるんだろう、という疑問に捕われる。他人の求める正解の振る舞いは予想がつく。それで、私はどうしたかった?

受け入れられる気がしない。他人の求める正解が予想づけられることは、働く上では有利に作用する。期待された役割とするべき事を把握して淡々とこなせば、便利な人間として認知され、居場所が確保される。自分の意志なんて必要ない。

じゃあ、期待される役割も、するべき事も定められていないときはどうすればいい?

仕事で個人的な感情を満たそうとするなんて感情的で図々しい馬鹿のすることだ(一定数そういう人もいるし、なんなら私もその一種なんだけど)。
個人的な幸せは、その期待される役割も、するべき事も定められていない世界で得るものだ。

私はそういう、共感や友情、愛情といったものが重視される世界で息ができない。私が私のままで受け入れられる世界なんて存在しないと思っているから、何も言えない。期待される役割が分からない。正解の返答はなんですか?どうしたら好きになってもらえますか?

自分を誇れる後ろ盾がある人は、そういう世界で自分の話ができるのだ。話すに値すると判断ができる。受け入れられると判断する。後ろめたさなんてきっと無いのだ。

私は後ろめたさしかない。がんばってこなくてごめんなさい。誇れる事なんて何も無いんです。くだらない事しかしてこなかった。得たものなんて何もありません。話すに値する事なんて、何一つ無いんです。

空虚を物で埋めようとしている。積み重なった本もCDも、ただただ予定を詰めるためだけに足を運ぶイベントも、全部空っぽの私をごまかすためのものだ。外側にいくら積み上げたって、私の中には何も無い。私は私を恥じている。

分かっているのだ。何かをするしかないことは。そんなくだらないことをしてどうするの?誰もあなたがそんなことをするの求めてない、誰も見ていない。愛されるわけないじゃない、と全部諦めきっている私をかなぐり捨てて。

自分のためだけに何かをすることのハードルがとても高い。どう見られるかを常に意識して選択をしている。でも、その自分のためだけに何かをすることが、誇りにつながることは理解している。誇りが、幸せになるための一歩なのだ。自分のためだけに何かをすること、認めていくこと。そのために莫大なエネルギーが必要な気がしている。心が錆び付いているのだ。でも、私は私に幸せになって欲しいのだ。