ねえ、

日記

自我をもつ

一年が終わった。どうにもこうにも、二進も三進もいかない年だった。
極力他人と関わらないようにすることで(そもそも関わり方が分からないけど)、どうにか保っていたと思っていた精神が崩壊の一途を辿っていた。私こんなにダメだったっけ。無条件に認められたくてしようがない。一人で立っていられない。関わらないことも、数ヶ月・数年でリセットをかけることも、もうできない年齢になってしまって、追いつめられている感触が強い。

あまりにも何もかもうまくいかないので、自己啓発本なんかが目について数冊読みふけった。正解不正解が気になるのも、他人の許可が無ければ生きた心地がしないのも、許可をもらえたようでも疑って恐ろしくて受け入れられないのも、他人を自分の軸にしている限り続く地獄らしい。他人の望むように振る舞おうとするとか、自分の意見を求められても答えられないとか、良い子であろうとするとか、完璧にできないとすべて無意味に思えるとか、書いてあることが当てはまりすぎて、そんなに重症なの私は、と笑ってしまうくらいだった。
そうなった要因は一つじゃなくて、色々な積み重ねがさらに悪循環を生み出して、なんかもう私の二十数年を返せよ、と思ったらそれすら本に書いてあって完全に精神の動きを読まれていた。
ちなみに私の境遇は全くたいしたことが無い(身体的にも精神的にも生命の危機に瀕するような事態は全く生じていない)ので、別の人間なら健やかに育つことができただろうと思う。ただ生まれてきた私は類いまれなる豆腐メンタルを持っていたので、無理だった。この豆腐っぷりで過酷な環境におかれていたなら既に死んでると思う。

こんなに認められたいのに、他人に認められようとすること自体が過ちで、自分で自分を認められない限り苦しさから解放されることはないらしい。
そんなこと言われても、自分への信頼性が低すぎて、まったくもってそんな気持ちになれない。理屈は分かるけれど。そもそも、認められたすぎる気持ちだけは人の百倍くらいあるのに、認めて欲しい「私」が分からない。例えば万が一何かを褒められたとしても、私のことなんて何も知らないくせに、本当はどんなにダメな人間か知らないくせになんてどろどろ思いながら、相手が引くほど謙遜して全部拒否する自分の姿は想像に難くない。
じゃあ私ってどんななんだよ、と言われると、多分、存在していないか、ものすごく少ない。他人が望むように振る舞うことに執心してきたので、他人が何も求めてくれない(何を求めてるか分からない)と何をどうしたらよいのか分からない←これがすでに正解を考えている思考である。

ただ、最近、私のことを何一つ知らない舞台の上の人に「今年、僕たちの知らないところでも、皆いっぱいがんばってたと思うので」と言われたときだけすとん、と受け入れられた。相手は私に何も求めていない。視認していない。その前提での励ましがなんだかとても心地よかった。非日常に触れて油断していたところに言葉が入り込んできた。

正常な精神の人間にこんな話をしたのなら、頭がおかしいあげく役者に入れ揚げるなんてと言われるのは明白なので、私のことを知っている誰にもいうつもりはない(といいながらインターネットで全世界に発信している)。
希薄な、関係と呼べないくらいの関係からの励ましでないと受け入れられないくらい疲弊していることなんて何の自慢にもならないのだけど、だからこそ、あの瞬間のすとん、となった感覚を汚されたくない。あの笑顔と信頼に恥じない私でありたいと思ったのは、確かに心を動かされたのは、正解不正解と関係ないところにいた私のはずだ。だって誰とも対峙していなかったんだから。

多分私は私にがんばったねと言われたいのだ。それには自我が必要だ。意識的に、したいと思うことをして、したくないことをしないことを責めるのをやめて、それを記録として残して、あのときすとん、となった感覚を重ねて、私が何が好きで何が嫌いで、どういう話をしたくて、どうなりたくて、本当は何を考えているのかを知っていく必要がある。そうすることで自分を信頼できれば、自分で自分をいいこいいこできるのではないだろうか。そんな感じのことが本にも書いてあった。

ぐだぐだながなが書いたんですけど、要するに言いたいことは、二十数年生きてきた上で今年の目標が「自我をもつ」ということですということです。以上。