ねえ、

日記

好きなものは隠そう

自分の好きなものを、否定されて当然だと思っている節がある。
そんなものを好きでいたらいけなくて、本当はもっと大勢が好きなもの(あるいは、そういうことになっているもの)を好きであるべきだという考えが根底にある。
どんなに素敵なものでも、私が好きでいるせいで、私がいる空間においてそれは取るに足らないもの、馬鹿にしても良いものになる。

いつも脳内で言い訳をして自分の好きなものを否定している。こんなものが好きですみません。皆様の好きなものの知識が無くて申し訳ありません。ええ、たいしたものじゃないんです。皆様の言う通りです。年相応でなくてすみません。この話はやめましょう、皆様の好きなものの話をしましょう。そちらのほうが楽しいでしょう。私の、どうでもいいもののことなんてどうでもいいんですから。ね、いつ出かけられたんですか?へえ、それは楽しそうですね!

いかに嫌み無く、へらへらと話すか。そればかりを考えている。何故ならそれは実生活で遭遇しうる状況だからだ。そのとき、動揺せず、周囲に不快な思いをさせず、笑い話、異なる価値観を否定することで成り立つコミュニケーションを継続させるためのシミュレーション。

怒ることができたら、少しは周りの態度は変わるのだろうか。私の好きなものは尊重されるだろうか。私の機嫌が悪くなったところで、何の支障もない人たちだからなにも変わらないだろう。私に不都合が増えるだけだ。異なる価値観同士がぶつかったとき、どちらかが折れない限り、表立って不愉快なコミュニケーションになる。折れるべきは私だ。

隣にそれがあるだけで、こんなにも気持ちが穏やかになるのに、私はそれを否定し続けなくてはいけないのか。好きなものへの後ろめたさがつのる。きっと本当に好きなものは隠しておくべきだ。誰にも踏みつけにされないように。
魑魅魍魎に対して、本名を名乗ってはいけないのと似ている気がする。
本当に大切なものを、得体の知れないものに知られてはいけない。

好きなものくらい、ただ好きでいさせてほしい。

多分ほしいと願う時点で違うのだろう。何かを好きであることは、誰かに知られる必要も許可をとる必要もないはずだ。他人への依存が激しい。すぐ許可を取りたがる。
それが自分を苦しめていることは分かっているのに、脳に思考が染み付いていて私を他人から切り離せない。気づくたびやめていくしかないことも分かっている。

ひとまず否定されるシミュレーションをやめることを目指そう。そのとき私の好きなものの否定は私がしている。もう誰にも面と向かって好きなものの話はしないことにすれば、シミュレーションも必要ない。

誰も尊重してくれないのだから、私くらい、私の好きなものを尊重したい。