ねえ、

日記

根拠

私は私の好きなことで褒められたことがないのでは?ということに気づいてしまった。

褒められたこと自体はある。堅実であること。将来苦労をしないために、準備を進めること。ルールを守り、派手な振る舞いをしないこと。反抗期がなかったこと。身の程を弁えて、できないことはしないこと。
これらのことはよく褒められた。

絵を描くことも、小さな生きものへの興味も肯定されたことがない。小さい頃からずっとそういうものが好きね、と事実を伝えられることはあっても、それが認められたことはない。むしろ、幼い時から変わらないこと、年相応でないことを責められているきらいがある。ああこの辺りが、「こんなことをしている場合じゃない」という焦りにつながるのか。

親から肯定されなくても、他の場所で肯定されていれば、もっとましだっただろうか。学校だろうがその他の場所であろうが、私はいつも評価に値しなかった。好きなことなら努力できるでしょう?そして評価されるでしょう。そうか。じゃあ私は好きじゃなかったんだろうか。評価されている人々と比べたら、技術もないし、詳しくもない。その人たちと比べたら、私は好きじゃないのかもしれない。

安定した生活がおくれなさそうな事柄に関して、家族の理解が得られないというのは、得てしてあり得る平凡な話だ。それでも頑張れる人たちには、確固たる自我があるのだと思う。反対を振り切っても愛してもらえるという自信や、自分自身のために生きることへの抵抗の無さ。他人の意見は自分の人生には関係がないという区切りの認識。

私は私が好きなことすら自分一人で決められない。自我がない。外側からぐちゃぐちゃに押されて、穴だらけになっている気がする。私はどうしたいんだろう。好きなはずのことで、何か形にできたなら少しは変わるだろうか。その好きなはずのことをするのが、何よりもこわくて手が震える。四六時中見張られていて、責められている気がしてしまう。褒められることじゃないからだ。誰も望んでいないことに、私は時間を浪費していいのか。
私を楽しくするための行動が、とても無駄なことに思える。
多分無駄じゃないのになあ。いつか私が楽しくなるために、他人が何の得もしないことを積み重ねていくこと。想像しただけで、なんて甘美なのだろう。


「いつか私が楽しくなるために、他人が何の得もしないことを積み重ねていく」…悪魔的な響きを持っている。これに加えてできないことを責めずに、試行錯誤だけができれば、幾分気分が良さそうだ。他人の意見は私には関係ない。私は私として私だけで好きなことをしていい…どうしよう、今すごくほっとしてしまった。