ねえ、

日記

感想とか寄せ書きとか本当に困る

四半期に一度くらい、出会いと別れの季節(卒業とか異動とか)を意識することになるのだけれど、意識するだけでそれに付随して感情が動くことがないなあ、と思う。
いや、感情がないわけじゃないと思うんだけど、なんというか、それを言い表すことができない。

そもそも、未だに毎年年賀状をやりとりするような友人に対しても、気の利いたコメントが思い浮かばず「去年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします。」と哀愁漂う字(友人評)で書く始末だ。いやめっちゃお世話になったし、よろしくお願いしたいと思ってる。同じ文面でも、義理で仕方なく返す年賀状とは違う心持ちの「去年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします。」だ。
うん。やっぱり、気持ちを表現する術を持っていないだけで、気持ちはある気がする。

年賀状もそうだし、寄せ書きやはなむけの言葉的なものも、周囲はいつも気の聞いた言葉や、対象の人との関わりを元にしたいい感じの言葉を用意していて感心する。私は「お世話になりました。これからもお体に気をつけて頑張ってください。」くらいしか言えない。汎用性が高すぎる。

気の利いた言葉が、自分に向けられたときも驚いてしまう。ええ、そんなこと確かにありましたね。でもまさか、そんなふうに思っていただいていたとは恐縮です。いや、ほんとに、人付き合いが悪くて、ろくな人間じゃないのに人間扱いしていただいてすみません。多分そのコメント、めっちゃ絞り出してくれてますよね。本当にすみません。そんなことを思いながら「えへへすみませんありがとうございます。こちらこそお世話になりました」。だからコメントの汎用性が高すぎるよ。

何故にこうも表現が乏しすぎるのかな。子どものとき、読書感想文や遠足の感想文でも困ってたな。何も思いつかないんだもの。読書感想文に至っては、結構頑張って絞り出して書いたんだけど「読書感想文を書けっていったのに紹介文を書いてきた奴がいる」ってクラスの皆さんの前で教師に吊るし上げられた記憶がある。確か、本のあらすじをざっと書いて、ここから先は乞うご期待!面白いから皆読んでね的なことを書いた気がする。いや確かに紹介文っちゃあ紹介文なんだけど。面白いから皆に読んで欲しいは感想じゃないのか。

じゃあどういう読書感想文が正しかったのかというと、「本のあらすじを書き、その上で特に自分が心動かされたエピソードを抜き出し、そのエピソードに関連づけて自分の心境の変化を語る」ものらしい(さっきぐぐった)。

嘘でしょ?さあ読書感想文を書いてみましょう!例はこれです!(教科書に載ってたサンプル1つ)でこれができるの?え?もう一回言うけど、嘘でしょ?

…私の飲み込みの悪さは一旦隅においといて、これに則って当時読んだ本の読書感想文を書こうとするとどうなるか考えてみる。

本のタイトルは忘れてしまったけれど、確か大切なものと引き換えに願いを叶えてくれる伝説の湖があって、それを目指して冒険するファンタジー小説だった。
主人公の女の子はゴツくて豪腕で、斧とかぶんぶん振り回せるのだけれど可愛い女の子になりたくてその湖を目指す。道中、めちゃくちゃ美人で盲目の魔法使い(性格はきつめ)と、身体が弱くて重たい剣を持てないから、樫の木でできた剣を使っている剣士と…あとなんか…おじいさんが居た気がする…が同じ湖を目指す仲間になって、一緒に危機を乗り越えていく。

もう、全然読書感想文に向いてない話だ。もっと実話に基づいたやつとか、せめてファンタジーじゃなくて現実世界の話のほうが絶対「エピソードに関連づけて自分の心境の変化を語る」がやりやすかったのでは。

まあいいや。とにかくそんな話で、私はすごく好きで、何度も読み返してたしずっと持ち歩いていた(結構分厚かった)。

初登場時はどの登場人物も、捻くれていて、お互いの持っていないものに対して嫉妬をしあっていて、自分の持っているものなんていらないと思っていた。捻くれているから誰からも嫌われていて、利害関係だけで一緒にいる状態だった。確か願いを叶えられるのは一人だけで、お互い出し抜こうとする思いすらあった気がする。それが、危機を乗り越えていく中でお互いの力でお互いを助けることができたりして、自分の持ってるものって結構捨てたものじゃないんじゃない?と思えたり、いつの間にか自分の無事より仲間の無事を祈るようになっちゃたりして。失って困るものなんてないと思っていた登場人物達は、お互いが大切な存在になっていて、自分のことも嫌いじゃなくなるのだ。そして願いを叶える必要なんてない、今のままでいい、と思えるようになる。

私はできないことがたくさんあるという自覚があって、さらに思いもよらぬところで他人より馬鹿であることに気づいて凹むことも多かった(この読書感想文のこともその一つ)ので、おそらくこの捻くれた登場人物達と同じだったのだ。だから、さくっと願いを叶えて望み通りの自分にしてくれる湖を目指す気持ちも分かるし、望み通りの自分じゃなくても、誰かと心を通じ合わせることができて、自分のことが嫌いじゃなくなる姿に憧れ、ほっとしていたのだ。できないことや嫌いなところに注目するのではなくて、できることに目を向けることで嫌いだったところも好きになれて、他人に何を言われようが立っていられるようになるなんて、なんて眩しい未来なんだろう。

…これは結構読書感想文になったんじゃなかろうか。「私はできないことがたくさんあるという自覚があって、さらに思いもよらぬところで他人より馬鹿であることに気づいて凹む」の部分に関してもっとたくさん具体的なエピソードを書けば、完全なる読書感想文に違いない。
ちなみにこれを一言でまとめると、「超面白いから皆読んで」になるのでやっぱり子どもの私は間違っていなかった…とはいえども、さすがにまとめすぎて具体性に乏しく求心力がない。「もうすこしがんばりましょう」であることは確かだ。

ただ、この感想文を、私のことを知っている不特定多数に晒すことができるかというと、それは難しい。認めてくれる可能性の低い(むしろマウンティングしてくる可能性のほうが高い)他人に対して弱点と自信のなさを晒すことになる。少なくとも、「紹介文を書いてきた奴がいる」と吊るし上げた教師やその言葉を受けて笑う同級生に対して晒さなかったことは正しい選択だ。

冒頭の話に戻る。感情を言い表す言葉が見つけられないのは、多分傷つけられるのが恐ろしいからだ。気持ちがなければ傷つけられることがないからといつの間にか奥に奥にと気持ちを追いやる癖がついた。
辛いことも楽しいことも、全部ぐっと押さえて何事もないかのように対応することは、結構意識して取り組んでいる。

幼い頃、たまごっちで可愛がっていたくちぱっちが病に倒れ死んでしまったとき、パニックになって泣いた。病気になってから死ぬまで、若干の時間があったのが辛さを倍増させた。死ぬまでの間、苦しむくちぱっち(しかも病気のマークがいつもと違うマークになっていて、手の施しようがないことが嫌でも分かった)をどうすることもできずに見ていることができなくて、たまごっちの機械を座布団と座布団の間に挟んでただただ時がすぎるのを待った。のちに(と言っても、子どもの頃だけど)母にはゲームと現実の区別がついていない、と言われた記憶がある。

それから幾分か時がすぎて、飼っていた金魚が死んだ。前日、いつもより食欲がない気がして、気のせいかな、と思ったのだけれど次の日には横向きになって、手の施しようがなかった。呼吸をしなくなるまで、ずっと水槽の前で励まし続けて(金魚的にはとても迷惑だったと思う)、前日に病院に連れて行けば大丈夫だったかもしれないのにと後悔した。
悲しさよりも、後悔の念が強くて、涙は出ず呆然とした。その様子を見た母は、「金魚が死んだのに泣かないなんて、命を軽く見ている。ゲーム(たまごっち)のせいだ」というようなことを言っていた。
私は確かに悲しかったけれど、泣かないのならば悲しんだことにはならないらしかった。悲しいよ、涙は出てなくても、と言ったところで、もはやたまごっちを庇う言い訳にしかならないのが分かっていたからそのまま何も言わなかった。

本を読んだり、ゲームをしたりしていて、楽しい気持ちになったときにはうっかり笑ってしまうことがあったのだけれど、何一人で笑ってるの?気持ち悪いと弟に言われたので、人が側にいるときは、心を動かさないように心がけた。

そんなふうに生きていたら、祖母が亡くなったとき、「悲しいと思ってるの?」と面と向かって父に聞かれた。「思ってるよ」とだけ答えた。「仲良くしてくれていた人がこの世からいなくなってしまったことを、悲しいと思ってないと思ってるの?それを本人に訊くの?ひどいよ」と、本当は言いたかった。
お葬式で少しだけ涙が出てしまった時は、「血も涙もないのかと思ってた」と親戚が言っていたらしい。それを私に伝える母の気持ちを考えると、本当に申し訳なかった。

言葉も表情も、全部、他人に理解されるために使うものだ。

他人の「こう思っているだろう」という予測に添った正しい感情表現をする。イメージでいうなら音ゲーが近いだろうか。弾(他人の予測)が流れてきて、それに対して絶妙なタイミングでボタンを押す(感情を動かす)。
そうすると、goodとかexcellentとかbadとか、そういうのをまた他人が返してくるのだ。それを何も出さないのだから、理解されないのは当然だ。そういう前提のもとであれば、私は泣く必要があったし、一人で楽しい気分になった時に表情を変える意味はなかった。もっと気軽なテーマの本で感想文を書けばよかった。

本当の私の気持ちなんて関係がなくて、ただのそういうやりとりのためだけに言葉も表情も使えれば、もっと楽に生きられるのだろう。
けれどそれができなくて、私は私の本当の気持ちを言葉や表情にしていたから、
他人からのbadに傷つけられることになって、傷つかないために、試合を放棄して流れてくる弾を全部見逃して棒立ちをすることになった。気持ちを表すことにブレーキがかかるのだ。

一言(でもちょっと長い)で言うならば、「全部本当のことを言うのでも全部他人の期待通りにするのでもなく本音と建前をてきとーに織り交ぜて生きていくのが一番楽なのではということを最近意識し始めたけどマジ難しすぎ」ということ。
完全に試合を放棄して何も感じないことにするのではなくて、これは全部建前ですから、とぶよぶよした半透明の膜に自分を包んで思ってもいない聞こえのいいことを言って、自分の気持ちを守っていく。本当のことなんて言っていないのだから、傷つく必要はない。そういう図太さを持つことで、本当の気持ちに思いを馳せる余裕を作っていきたい。