ねえ、

日記

決定権

私は私自身で何も決めてこなかった。
幸いにも、明示的に私に命令したり脅したりしてくる人はいなかった。だからこれは誰かの言う通りに行動してきたとかそういうことではなく、おそらくこの人はこうして欲しいのだろう・私のことをこうだと思っているのだろうと察して勝手に私がその通りに動いてきたという話だ。

それぞれのコミュニティで、それぞれの人たちが望むその人の姿がある。
望む行動ができたときには、何も言われないか、褒められるか。できなかったときには、何も言われないか、不快感を示されるか。

さらにここに「お世辞」という概念が入り込んでくる。例えば、私が頑張っている姿を人に見せることは、見せられた人に私を褒めたり、少なくとも「こういうことを頑張ろうとしている人」であるという扱いを強制する。それは人に気を使わせることである。だから、私は人に頑張っている姿を見せてはいけない。見られてしまう場合は、頑張っていないことにしないといけない。私は何も努力をしていない。だから尊重してくれなくていい。認めてくれなくていい。

何が正解か分からなくて、正解不正解を決めてもらいたいのに、正解を出されると「いやいやいやそんなことないです大したことじゃないんです私なんて全然駄目なんですほらこんなに駄目なところが!!!!」と相手が引くほど謙遜をする。
もしくは、正解を出されたのならば、それ以外の行動はすべて不正解になるから、正解である私から変わってはいけない、変わろうとしてはいけないとさらに制限をかける。そして定期的に、私は正解のままですか?と確認をする(これは母限定の対応である。私は母への依存がすごい)。うざったいことこの上ない。そしてその正解は、別の人からすると不正解であったりする。正解と不正解の狭間で、どんどん身動きが取れなくなっていく。何も考えられなくなっていく。何も考えない人間はよくない人間なので、考えている振りをして相手に合わせる。私の考えなんて何もなくて、ただ今相対している人間が気持ちよくなる相づちや話の方向性を打ち出すだけだ(それすらうまくできないから、どこに行っても浮いてるんだけど)。

何か特定の出来事が原因でこうなったわけじゃない。ただ私は周囲の望む姿に応えなければと思っていた。私のせいで誰にも不快な思いをして欲しくない。何も言及されたくない。おかしいと思われてはいけない。私がどのような私でいるべきか、決めるのは私じゃない。

しかし望まれる振る舞いはあまりに難しすぎた。笑うタイミングも正解の相づちも分からない。異物だ。皆と同じようにステップを踏めない人間は、努力不足・甘え・幼いと責め立てられる。リズムは、所属する集団によって次々と変わる。対応しきれない。ならば私はそういう「頑張ってない甘えた人間」という正解の振る舞いをしなければならない。その枠からはみ出そうとしてはいけない。十分頑張ったんじゃない?限界じゃない?もう諦めて楽しいことしようよ、と小さい声が聞こえてくる気もするが、そんな傲慢な気持ちを抱いてはいけない。頑張ったかどうかも、限界かどうかも決めるのは私じゃない。人間は群れで生きる生き物だから、群れに属せない人間はそれでも生かされていることに感謝こそすれど、それでよいなんて思ってはいけない。自分で自分は頑張ったと評価すること。そんなのは甘えだ。

ぼんやりとしていた気持ちを文章にすると、自分の自分に対する過激派っぷりに驚く。もし友人が上で書いたようなことを思っていたなら、そしてそれを私に吐露したなら、私は
「他人に自分の価値を担保してもらおうとするとマジ終わり見えなくてきつくない?私も含めて皆好き勝手言うしさ〜。皆勝手に他人に見たいものを見ているだけなんだよ。もううるせーぶっころすぞくらいの気持ちで好きなことしようぜ〜煩悩煩悩。お前がどう思っていようと、私はすごいもの持ってんだぞ的な絶対的な武器が欲しいよね。お前は知らないだろうが私はこの前本屋で檸檬を爆弾に変えたとかね。」

と、持っているアイスティーのグラスにささったストローをいたずらに回して、氷をかき混ぜながらへらへらというだろう。
他人に見たいものを見るから、これは私が言われたい言葉だ。でも、他人に言われても、それは自分で決めたことではない新たな制限として私にのしかかる。

私の体には、今まで他人に巻き付けられた・あるいは自分で巻き付けた見えない有刺鉄線がすっかり癒着してしまっている気がする。通りすがりの人間にそれを動かされ痛みに悶えることもあれば、戒めとして自ら握りしめて、もっと深く体に食い込ませることもある。
苦しいとき、自分を戒めていることに気づくこと。「できない」という罪の意識に苛まれたとき、それが有刺鉄線のせいだと気づくこと。有刺鉄線は、私の人生に制限をかけていると気づくこと。本当にやりたいことの存在。気づかない限り、外すこともできない。癒着しているから、外すのにすら痛みが伴うし勇気が必要だけれど、そろそろ何の責任も取ってくれない他人に私の決定権を預けるのをやめたいのだ。