ねえ、

日記

許せる姿

漠然とできないことだらけという印象が強すぎて自分の現状を全然許せないので今日はどういう私だったら私は私を許せるのか考えてみるよ〜〜〜!!!!もう我が強すぎて他人様の思う通りにはなれないので完全降伏して自分の好きなことしよ!!!諦めたい!!!いってみよう!!!!

 <見た目編>
 ・もちもち素肌で吹き出物など一つもない
 ・余計な脂肪は一切ついていない顔
 ・細い脚と腕。ただし骨と皮ではなくほどよく筋肉が付いている
 ・うっすらとうきあがる腹筋
 ・余計な脂肪のない背中
 ・常に上がった口角
 ・爪は常に整えられささくれはない
 ・無駄毛のそり残しなど一切ない
 ・髪は常につやつや
 ・印象的な目(化粧込み)
 ・常に整った眉
 ・姿勢が良い
 ・毛玉や穴あきの服を着ない
 ・自分に似合いかつ好きな服を着る
 ・汚れた靴を履かない
 ・体が柔らかい
 <行動編>
 ・萌えたものをすぐ形にできる
 ・観た映画の感想をすぐまとめられる
 ・可愛い生き物の絵が描ける
 ・旅行記をすぐにかける
 ・形にしたものを発信できる
 ・歌がうまい
 ・英語を聞き取れ、読めて、話せる
 ・字がきれい
 ・映画の知識が豊富
 ・生き物の知識が豊富
 ・どこの国に何があってその国がどこにあるのか分かる
 ・国内の地理が分かりどこに何があるのかも分かる
 ・流行の音楽が分かる
 ・適度に物語を読める
 ・自分が好きになれそうなものをちゃんと摂取できる(そのための情報収集もする)
 ・日本史にも世界史にも明るい
 ・部屋は常に片付いている
 ・服や靴を好きなように買える
 ・行きたいと思ったところに行ける
 ・他人の言うことに左右されない
 ・少し走ったくらいでは息があがらない

これだけできたら許せるかな。これだけできたら他人に認められなくても一人で立って生きていける気がするぞ〜〜〜。じゃあそのために今私がしていることをまとめてみよう。

<していること>






……ない。ないのだ。何一つできてない。できていないというのは間違いで、何一つやっていない。

見た目編に至っては、やってはいけないと思っていたからやることにすごく抵抗がある。
だって散々、そのままで可愛いだの(親だから嘘をつくんだろうけど良い影響はまったくないのでブスなりの努力の仕方を教えた方がいいと思う)健康体重以下に痩せようとするのは馬鹿のすることだの校則を守るのが正しいだの美しくない人間が化粧カウンターに座るのはみっともないだの色々言われてきたのだ。
そんな状態で努力しようとすれば好奇の目に晒される馬鹿にされる。怖すぎる。自分の好きな自分になろうとするだけなのに、なんでそんなふうに他人にがんじがらめにされなきゃいけないんだ…。

…とりあえず、今すぐできるものと長期的な努力が必要なものに分けよう。

<今すぐにできるもの>
 ・爪は常に整えられささくれはない
 ・無駄毛のそり残しなど一切ない
 ・常に整った眉
 ・姿勢が良い
 ・毛玉や穴あきの服を着ない
 ・汚れた靴を履かない
 ・観た映画の感想をすぐまとめられる
 ・旅行記をすぐにかける
 ・形にしたものを発信できる
 ・適度に物語を読める
 ・自分が好きになれそうなものをちゃんと摂取できる(そのための情報収集もする)
 ・部屋は常に片付いている
 ・服や靴を好きなように買える
 ・行きたいと思ったところに行ける

<長期的な努力が必要なもの>
 ・もちもち素肌で吹き出物など一つもない
 ・余計な脂肪は一切ついていない顔
 ・細い脚と腕。ただし骨と皮ではなくほどよく筋肉が付いている
 ・うっすらとうきあがる腹筋
 ・余計な脂肪のない背中
 ・常に上がった口角
 ・髪は常につやつや
 ・印象的な目(化粧込み)
 ・自分に似合いかつ好きな服を着る
 ・体が柔らかい
 ・萌えたものをすぐ形にできる
 ・可愛い生き物の絵が描ける
 ・字がきれい
 ・映画の知識が豊富
 ・生き物の知識が豊富
 ・どこの国に何があってその国がどこにあるのか分かる
 ・国内の地理が分かりどこに何があるのかも分かる
 ・他人の言うことに左右されない
 ・少し走ったくらいでは息があがらない


長期的な努力が必要なものが多くて気絶しそうだけどとりあえず明文化したから何をすればいいか分かるようになったぞ!!
それにしても、本当に自分がこうありたいと思うことのみを集めてみたら、本当に私は他人と直接的に関わるのが好きじゃないんだなと思った…(本を読んだりするのは間接的な他人との交流)。好きじゃないことをできなきゃいけないと思ってずっと過ごしてたんだ。そうか。

決定権

私は私自身で何も決めてこなかった。
幸いにも、明示的に私に命令したり脅したりしてくる人はいなかった。だからこれは誰かの言う通りに行動してきたとかそういうことではなく、おそらくこの人はこうして欲しいのだろう・私のことをこうだと思っているのだろうと察して勝手に私がその通りに動いてきたという話だ。

それぞれのコミュニティで、それぞれの人たちが望むその人の姿がある。
望む行動ができたときには、何も言われないか、褒められるか。できなかったときには、何も言われないか、不快感を示されるか。

さらにここに「お世辞」という概念が入り込んでくる。例えば、私が頑張っている姿を人に見せることは、見せられた人に私を褒めたり、少なくとも「こういうことを頑張ろうとしている人」であるという扱いを強制する。それは人に気を使わせることである。だから、私は人に頑張っている姿を見せてはいけない。見られてしまう場合は、頑張っていないことにしないといけない。私は何も努力をしていない。だから尊重してくれなくていい。認めてくれなくていい。

何が正解か分からなくて、正解不正解を決めてもらいたいのに、正解を出されると「いやいやいやそんなことないです大したことじゃないんです私なんて全然駄目なんですほらこんなに駄目なところが!!!!」と相手が引くほど謙遜をする。
もしくは、正解を出されたのならば、それ以外の行動はすべて不正解になるから、正解である私から変わってはいけない、変わろうとしてはいけないとさらに制限をかける。そして定期的に、私は正解のままですか?と確認をする(これは母限定の対応である。私は母への依存がすごい)。うざったいことこの上ない。そしてその正解は、別の人からすると不正解であったりする。正解と不正解の狭間で、どんどん身動きが取れなくなっていく。何も考えられなくなっていく。何も考えない人間はよくない人間なので、考えている振りをして相手に合わせる。私の考えなんて何もなくて、ただ今相対している人間が気持ちよくなる相づちや話の方向性を打ち出すだけだ(それすらうまくできないから、どこに行っても浮いてるんだけど)。

何か特定の出来事が原因でこうなったわけじゃない。ただ私は周囲の望む姿に応えなければと思っていた。私のせいで誰にも不快な思いをして欲しくない。何も言及されたくない。おかしいと思われてはいけない。私がどのような私でいるべきか、決めるのは私じゃない。

しかし望まれる振る舞いはあまりに難しすぎた。笑うタイミングも正解の相づちも分からない。異物だ。皆と同じようにステップを踏めない人間は、努力不足・甘え・幼いと責め立てられる。リズムは、所属する集団によって次々と変わる。対応しきれない。ならば私はそういう「頑張ってない甘えた人間」という正解の振る舞いをしなければならない。その枠からはみ出そうとしてはいけない。十分頑張ったんじゃない?限界じゃない?もう諦めて楽しいことしようよ、と小さい声が聞こえてくる気もするが、そんな傲慢な気持ちを抱いてはいけない。頑張ったかどうかも、限界かどうかも決めるのは私じゃない。人間は群れで生きる生き物だから、群れに属せない人間はそれでも生かされていることに感謝こそすれど、それでよいなんて思ってはいけない。自分で自分は頑張ったと評価すること。そんなのは甘えだ。

ぼんやりとしていた気持ちを文章にすると、自分の自分に対する過激派っぷりに驚く。もし友人が上で書いたようなことを思っていたなら、そしてそれを私に吐露したなら、私は
「他人に自分の価値を担保してもらおうとするとマジ終わり見えなくてきつくない?私も含めて皆好き勝手言うしさ〜。皆勝手に他人に見たいものを見ているだけなんだよ。もううるせーぶっころすぞくらいの気持ちで好きなことしようぜ〜煩悩煩悩。お前がどう思っていようと、私はすごいもの持ってんだぞ的な絶対的な武器が欲しいよね。お前は知らないだろうが私はこの前本屋で檸檬を爆弾に変えたとかね。」

と、持っているアイスティーのグラスにささったストローをいたずらに回して、氷をかき混ぜながらへらへらというだろう。
他人に見たいものを見るから、これは私が言われたい言葉だ。でも、他人に言われても、それは自分で決めたことではない新たな制限として私にのしかかる。

私の体には、今まで他人に巻き付けられた・あるいは自分で巻き付けた見えない有刺鉄線がすっかり癒着してしまっている気がする。通りすがりの人間にそれを動かされ痛みに悶えることもあれば、戒めとして自ら握りしめて、もっと深く体に食い込ませることもある。
苦しいとき、自分を戒めていることに気づくこと。「できない」という罪の意識に苛まれたとき、それが有刺鉄線のせいだと気づくこと。有刺鉄線は、私の人生に制限をかけていると気づくこと。本当にやりたいことの存在。気づかない限り、外すこともできない。癒着しているから、外すのにすら痛みが伴うし勇気が必要だけれど、そろそろ何の責任も取ってくれない他人に私の決定権を預けるのをやめたいのだ。

 

謎ルール

「この程度しかできない」より「これくらいならできる」のほうが精神衛生上よさそげだと一昨日思ったんだけど、ていうか最近は常々そっちのほうが健康だと思っているんだけど、残念ながら私は「できる」と思うことにめちゃくちゃ抵抗がある。

自己肯定感の低さとか完璧主義は生きづらさの一因となるので、ありのままの自分を認める・許す・できたことを意識するとかそういうことを通じて改善していきませう!とよく見聞きする。
その度、いやいや私に関しては自分を律していかないとマジでどうしようもないくらい転落するぞ大体許すとか罪の意識とかなんだよ厨二病かよと私は鼻で笑っていた。自分がそれらをできていないとは思っていなかった。
自己肯定感が低いのではなく、正当な評価として私は肯定される人間ではないし、意識も低すぎるから完璧主義でもないと思っていた。
ありのままの自分を冷静に見定めた上で、改善すべき点が多すぎるのだと思っていた。

昨日のことですら何をしていたかも思い出せなくて日々達成感が無さすぎて生きていられない感がすごかったときに、記録を残して達成感を味わおうとした。具体的に言うと、何かしら「できた」日は手帳にシールを貼っていこうと試みたことがあった(物欲だけは妙にあるのでこのために可愛いシールと手帳を買った)。
しかし毎日シールのことを意識して手帳も開いているのに貼ることができない。手帳まっさら。端から見たら、三日坊主どころか始めてもいないように見える有様。

シール貼れなすぎでしょ…なんで貼れないの?何かしらしてるでしょさすがに…今日は久しぶりに絵を描けたな…シールを貼ってもいいのでは…いやしかしあのときスマホぽちぽちする時間も絵を描くのに費やしていれば今日完成したのでは?時間を浪費したのでは?今日もシールを貼る権利はない…。
…お気づきだろうか。新しいルールが生まれていることを。「何かをできた日はシールを貼ってよい」に加えて、「ただし、少しでも生産性のないことをした日はシールを貼ってはならない」という謎ルールがいつの間にか誕生している。なんてこった。

このルールのもとシールを貼るには、丸一日、ひと時も休むことなく生産性のあることをしなくてはならない。お手軽に達成感を味わおうとしてはじめたはずなのに、全然お手軽じゃない。そもそも、「生産性のないことをしたこと」と「何かしら行動したこと」の間に関係性はないはずである。全然冷静に見定められてない。自分のことは分かっているつもりでいたのに、知らないルールがあった。この辺が、もしかすると完璧主義的なアレなのかもしれない。完璧主義者って、意識を高く持っていてチートかよってくらいにあれこれできる人のことかと思っていたけど、できない完璧主義者というものも存在するらしい(いや本当に、完璧というにはおこがましいくらいの主義だと思うんですけど)。

謎ルールが誕生していることに気づいた時は本当に驚いて、これが…水(ウォーター)…!とちょっとしたヘレン・ケラーになるくらいの衝撃だった。きっと他にも気づいてないだけで謎ルールが色々あるのかもしれない。気づいたらここに書いていこう。

とりあえず、シールの件については抵抗感が半端ないけれど、それが謎ルールによるものであれば目をつぶってセイヤッと貼っていくこととしたい。そのうち慣れることを期待しつつ。…だっていっぱいシール貼れたらいっぱいシール買えるじゃん?(物欲)

こんなことしてる場合じゃない

…と毎日何をしていても、ふと思ってしまうんですがじゃあ一体今何をする場合なんでしょうね。
無能なりに仕事をしていますが、無能でもできる仕事なので私じゃなくてもいいわけですよ。じゃあ私にしかできないことをしたいじゃないですか。でも私無能なんですよ。私がいなかったとしても、私がいたポジションは余裕で誰かが埋められるんですよ。趣味にしたって、動物が好きだけど、私より動物に詳しい人はたくさんいるし、映画も私より精通してる人が大勢いて、絵なんて上手い人がすぐ見つかる時代じゃん(いつもありがとうございますごちそうさまです)。もう私超いらない子。100メートル10秒とかで走れなくていいから、なんかこう、必要とされる能力欲しかったよね。私じゃなくちゃダメなやつ。
ここに至るまでに、無能でないための努力をしなくてはいけなかった気がする。でもそう思うと期間短くない?二十数年の間(しかも最初の方物心ついてない)に何かしらの能力を身につけなくてはいけなかったの?もう諦めなくちゃだめ?無理?
びっくりするくらい健康体なので、このまま何もなかったらあと60年くらいは人生が続いてしまう。諦めて生きるには長過ぎる。死ぬにはしがらみが多すぎる。
そうだ、本当はもう、能力を持っていなくてはいけない段階なのに、何もないから何をしても「こんなことしてる場合じゃない」になっている気がする。詳しくなくてはいけないのに、もっとうまくやれなきゃいけないのに、私の出力は全然そこに届いていないから。
そう思うと、「こんなことしてる場合じゃない」は言葉として間違っていて「これくらいのことしかできない」が正しい気がする。やばいな。「こんなことしてる場合じゃない」はできる人の言葉だ。うんうん。私はこの程度よ。「これくらいのことしかできない」のよ。その「これくらい」のレベルを上げていくことをしなかったが故の報いが現状であり、どうにかこうにかごまかしながら生きていくしかないんだろう。
…本当はさ、あんまり、諦めたくないんだけど。
「これくらいならできる」と言い換えられれば精神衛生上良さそうな気もするけど、自分でそう思うのめっちゃ気持ち悪いぞ〜〜〜〜。困る〜〜〜〜。
いや、楽しく生きたいなって話よ。そうそう。生きたいのよ楽しく。何にもできないけど。

なんかもう、ままなら過ぎる。
TPO弁えてさ、お外ではおとなしくしてるからさ、頼むよ。
……とブログを作ってみたものの、今日は割といい感じに過ごせてしまった。ていうか、そもそもいい感じの日じゃないとブログ作ったりできないよね。床に倒れてることしかできないよね。

どういい感じだったかというと、今日は本を買ってきて、その一冊を一気に読むことができた。本当、久しぶり。多分1年半振りくらい。久しぶりに、周りの音が一切聞こえなくなるくらい集中して物事に取り組めた。頭があつい。え、今日めっちゃ調子いいんじゃないのこれ。大丈夫?明日(ていうかもう今日だけど)大丈夫?

もう夜も遅いから本当は寝た方がよいのだろうけど、本の感想とかは生き物だから、鉄は熱いうちにうった方がよいから、書いてから寝る…と思ったけれど、結局2時まで起きてても書き終わらなかったから次の日に書いてる。日記なのにいきなりその日にかけてないぞ。なんてこったい。

で、何を読んだかというと「バッタを倒しにアフリカへ」というなかなかにパンチの効いたタイトルの本。昆虫学者を目指す昆虫博士の前野ウルド浩太郎氏(バッタ博士)が、バッタ研究の需要がない日本を飛び出し、バッタの大群の襲来により農作物が食い荒らされ深刻な飢饉に悩まされるアフリカのモーリタニアに渡り、予想外に現れないバッタや無収入と戦うノンフィクション。

何故か私の買った本屋さんではビジネス新書コーナーにおいてあり、「ちょ…すみませ…」とか細い声で難しい顔をしたおじさんたちをかき分け、2冊平積みされたうちの1冊を颯爽ととってきた。緑色のお兄さんが虫網を構えた表紙を。あのときの気持ちはBL本コーナーを見ているときの気持ちと似ていた(まだBL本を本屋で買ったことはないので、BLより先にバッタの一線を越えた)。

軽めの読み口と時々挟まれる不思議な出来事(緑色の服を着てバッタに食われようとする著者の図はもちろん、個人的にはバッタ高価買い取りキャンペーンのくだりが好き)のおかげで楽しく読めた。しかしながら、著者の置かれた立場に、ちょいちょい学者になるための道の険しさを感じさせられる。

やりたいことがあって、行動力があって、そのための賢さだって備えているのにそれだけではまだ足りないの?そんな人がたくさんいて、倍率20倍30倍で椅子を取り合ってるの?いや、それ相応の機関から支援を受けるには、真剣さ、この先の展望、結果それが大衆にどれだけの恩恵をもたらすことができるのかきちんと伝えられなければいけない。そうね、それは分かる。多分、そこで求められるのは、研究においても必要な能力。日本のおいて今特にバッタで大きな悩みはないから、バッタの知名度を上げないと勝ち目はない。そのために、バッタ博士は自らバッタの知名度を上げるべく自身のブログやニコニコ学会β、プレシデントといった様々な媒体でバッタを売り込んでいく。分かる。バッタの研究をしたい、その一心で行った行動。素敵。
……それに対して「有名になったねぇ」と、イヤミ浴びせてくる人が居る。研究者は論文によってのみ評価される。背中で語れ。そうね。その通りね。その場所がないんですけどね。「したいことをして生活する」ことへの嫉妬と批判が、こんなところにまで来ている気がする。それを言ってどうするんだろう。したいことをするために、頑張っている人の足を引っ張るだけの人はいらないよ。いらないけれど、消すことはできないから、うまいこと付き合っていくしかない。…いや、付き合いたくはないな。うっかりそういう人の思考が自分の中に入ってこないようにしなくてはいけない。自分の中に招き入れ続けた結果、私の世界はずいぶんと狭くて身動きのとれないものになっている。バッタ博士もイヤミに凹んでいる。凹んでいるけれど、バッタ博士は前に進む。バッタを追いかける。研究者でなくても、その様に励まされるし、つるりとしたゴミムシダマシのフォルムは可愛い(バッタは複数のパーツの組み合わせがカッコいいと思う)。

外国人として、モーリタニアの人々と対等に渡り合っていく術を身につけていく様子や、車の運転手というよりもはや相棒なティジャニ氏とのやりとりはほっこりする。がんばるバッタ博士の周りには、色々な魅力を持った人たちが集まる。行動できる人には応援してくれる人がいる。何をするにも、人脈が大事よ、と言われてしまうと、人と一緒に居るとどんどん消耗してしまう身としてはもはや生きてはいけないのでは…と頭を悩ませてしまうのだけれど、多分そこで言う人脈って、ただ大勢で飲んで騒ぐこと、それを楽しめる能力…のことではなくて、異なる視点を持つ人同士がお互い、行動に基づいた経験・知識・技能を示し、お互いに別の世界での活かし方を知ること。別だと思っていた世界をつなげること。お互いを尊重したうえで、生き方を交わらせること。そういうものを人脈と呼ぶのだろうな、とこの本を読んでいると思う。そうであれば、確かに人脈には意味があるし、魅力的だ。

したいことできないコンプレックスが爆発してしまったので、面白かったところの紹介が微妙な感じになってしまった。微妙なのは私であって、バッタ博士の戦いの日々の語りはとても読み応えがあり、応援したくなる。ほんとにほんとだよ。