ねえ、

日記

自分のためになること とは

また無意識のうちに他の人間に期待したせいで、精神が不安定になっている。

何をしようが他の人間には理解されないし許容されないことをいい加減理解するべきだ。他の人間は違う世界で生きているのだから、どんなに頑張って物事に取り組もうとも、期待に応えようとしても期待する反応は帰ってこない。
そもそも、頑張れば認められるとか、期待してもらえてるとかそういう前提が間違っているのだ。他の人間は私を、私が期待しているようには認めない。消費するだけだ。

でも、だとしたら、他の人間はどこで精神の安寧を得ているのだろうか。期待されない、必要とされない人間関係のなかで、どうやって生きているのか。

他の人間は、多分、罪悪感なく自分のために他人を消費できるのだ。期待するとかしないとかではなくて、全部きっと自分のためなのだ。他人のためだとかいいつつ、自分のために行動しているのだ。

私は私が全然大切じゃないから、私のためにはがんばれない。だから表面上、他の人間の真似事をしようとして、他人のためにと自分のためじゃない行動をとって認められなくて消耗する。認められようとするのは自分のための行動ではないか、と言われそうだけれど、本当に自分のためにと納得して行動できていれば、他人のために行動した自分に満足できるはずなのだ。

まるで自分のためであるかのように、刹那的な娯楽で全部予定を埋めて金を払って、何も考えずにすむ時間を作ることでどうにか引き延ばしているけれど、虚しさしか残らない。面白かろうがつまらなかろうが、美しかろうが醜かろうが私が感じたことなんて何の役にも立たないのだ。私が何かを思うことを、誰も期待していない。何のために生きているのか分からない。痛みに弱くて勇気もないから終わらせることができなくてごまかしながら過ごしているけれど、生きていたい積極的な理由がない。


何が自分のためになることなのかも分からない。苦しいとも助けてとも誰にも言えなくて、独りで泣きながらうずくまる夜をあと何度過ごせば楽になれるのだろうか。

誇りについて

誇れる自分になりたい、と思った。

何も無いのだ。誇れることが。私はこういうことができる(だから魅力的である)とか、こういうことを頑張っている(だから存在するに値する)とか、そういうのが一切無いのだ。存在する事に対する後ろ盾が無い。

存在している事が申し訳ないから、なるべく他人の利になる行動をして、認知されようとする。そうして得た認知は私が役に立たなくなった時点で放棄される。だからいつまでも恐怖が拭えない。役に立たない奴だと思われるのが何よりも恐ろしい。

他人がどうしたら居心地よく過ごせるのか、そのためにはどんな私でいたらいいのかそれを考え振る舞う術だけはよく知っているつもりだ。相手の性質、自分と相手の立場や年齢を考慮して好かれそうな振る舞いをする。そうして、私はどこにいるんだろう、という疑問に捕われる。他人の求める正解の振る舞いは予想がつく。それで、私はどうしたかった?

受け入れられる気がしない。他人の求める正解が予想づけられることは、働く上では有利に作用する。期待された役割とするべき事を把握して淡々とこなせば、便利な人間として認知され、居場所が確保される。自分の意志なんて必要ない。

じゃあ、期待される役割も、するべき事も定められていないときはどうすればいい?

仕事で個人的な感情を満たそうとするなんて感情的で図々しい馬鹿のすることだ(一定数そういう人もいるし、なんなら私もその一種なんだけど)。
個人的な幸せは、その期待される役割も、するべき事も定められていない世界で得るものだ。

私はそういう、共感や友情、愛情といったものが重視される世界で息ができない。私が私のままで受け入れられる世界なんて存在しないと思っているから、何も言えない。期待される役割が分からない。正解の返答はなんですか?どうしたら好きになってもらえますか?

自分を誇れる後ろ盾がある人は、そういう世界で自分の話ができるのだ。話すに値すると判断ができる。受け入れられると判断する。後ろめたさなんてきっと無いのだ。

私は後ろめたさしかない。がんばってこなくてごめんなさい。誇れる事なんて何も無いんです。くだらない事しかしてこなかった。得たものなんて何もありません。話すに値する事なんて、何一つ無いんです。

空虚を物で埋めようとしている。積み重なった本もCDも、ただただ予定を詰めるためだけに足を運ぶイベントも、全部空っぽの私をごまかすためのものだ。外側にいくら積み上げたって、私の中には何も無い。私は私を恥じている。

分かっているのだ。何かをするしかないことは。そんなくだらないことをしてどうするの?誰もあなたがそんなことをするの求めてない、誰も見ていない。愛されるわけないじゃない、と全部諦めきっている私をかなぐり捨てて。

自分のためだけに何かをすることのハードルがとても高い。どう見られるかを常に意識して選択をしている。でも、その自分のためだけに何かをすることが、誇りにつながることは理解している。誇りが、幸せになるための一歩なのだ。自分のためだけに何かをすること、認めていくこと。そのために莫大なエネルギーが必要な気がしている。心が錆び付いているのだ。でも、私は私に幸せになって欲しいのだ。

自我をもつ

一年が終わった。どうにもこうにも、二進も三進もいかない年だった。
極力他人と関わらないようにすることで(そもそも関わり方が分からないけど)、どうにか保っていたと思っていた精神が崩壊の一途を辿っていた。私こんなにダメだったっけ。無条件に認められたくてしようがない。一人で立っていられない。関わらないことも、数ヶ月・数年でリセットをかけることも、もうできない年齢になってしまって、追いつめられている感触が強い。

あまりにも何もかもうまくいかないので、自己啓発本なんかが目について数冊読みふけった。正解不正解が気になるのも、他人の許可が無ければ生きた心地がしないのも、許可をもらえたようでも疑って恐ろしくて受け入れられないのも、他人を自分の軸にしている限り続く地獄らしい。他人の望むように振る舞おうとするとか、自分の意見を求められても答えられないとか、良い子であろうとするとか、完璧にできないとすべて無意味に思えるとか、書いてあることが当てはまりすぎて、そんなに重症なの私は、と笑ってしまうくらいだった。
そうなった要因は一つじゃなくて、色々な積み重ねがさらに悪循環を生み出して、なんかもう私の二十数年を返せよ、と思ったらそれすら本に書いてあって完全に精神の動きを読まれていた。
ちなみに私の境遇は全くたいしたことが無い(身体的にも精神的にも生命の危機に瀕するような事態は全く生じていない)ので、別の人間なら健やかに育つことができただろうと思う。ただ生まれてきた私は類いまれなる豆腐メンタルを持っていたので、無理だった。この豆腐っぷりで過酷な環境におかれていたなら既に死んでると思う。

こんなに認められたいのに、他人に認められようとすること自体が過ちで、自分で自分を認められない限り苦しさから解放されることはないらしい。
そんなこと言われても、自分への信頼性が低すぎて、まったくもってそんな気持ちになれない。理屈は分かるけれど。そもそも、認められたすぎる気持ちだけは人の百倍くらいあるのに、認めて欲しい「私」が分からない。例えば万が一何かを褒められたとしても、私のことなんて何も知らないくせに、本当はどんなにダメな人間か知らないくせになんてどろどろ思いながら、相手が引くほど謙遜して全部拒否する自分の姿は想像に難くない。
じゃあ私ってどんななんだよ、と言われると、多分、存在していないか、ものすごく少ない。他人が望むように振る舞うことに執心してきたので、他人が何も求めてくれない(何を求めてるか分からない)と何をどうしたらよいのか分からない←これがすでに正解を考えている思考である。

ただ、最近、私のことを何一つ知らない舞台の上の人に「今年、僕たちの知らないところでも、皆いっぱいがんばってたと思うので」と言われたときだけすとん、と受け入れられた。相手は私に何も求めていない。視認していない。その前提での励ましがなんだかとても心地よかった。非日常に触れて油断していたところに言葉が入り込んできた。

正常な精神の人間にこんな話をしたのなら、頭がおかしいあげく役者に入れ揚げるなんてと言われるのは明白なので、私のことを知っている誰にもいうつもりはない(といいながらインターネットで全世界に発信している)。
希薄な、関係と呼べないくらいの関係からの励ましでないと受け入れられないくらい疲弊していることなんて何の自慢にもならないのだけど、だからこそ、あの瞬間のすとん、となった感覚を汚されたくない。あの笑顔と信頼に恥じない私でありたいと思ったのは、確かに心を動かされたのは、正解不正解と関係ないところにいた私のはずだ。だって誰とも対峙していなかったんだから。

多分私は私にがんばったねと言われたいのだ。それには自我が必要だ。意識的に、したいと思うことをして、したくないことをしないことを責めるのをやめて、それを記録として残して、あのときすとん、となった感覚を重ねて、私が何が好きで何が嫌いで、どういう話をしたくて、どうなりたくて、本当は何を考えているのかを知っていく必要がある。そうすることで自分を信頼できれば、自分で自分をいいこいいこできるのではないだろうか。そんな感じのことが本にも書いてあった。

ぐだぐだながなが書いたんですけど、要するに言いたいことは、二十数年生きてきた上で今年の目標が「自我をもつ」ということですということです。以上。

別の人のほうがよかった

常々、私じゃなくて別の人ならよかったのにね、と思っている。
私が私でよかったと思ったことなど一度も無いし、私がいることで利益を得た人も一人もいない。損害はあると思う。
私と関わっている人は、私がいなければその時間別の人と関われていて、私が今いるポジションにも別の人が収まって、もっと円滑に、不快な思いをせず過ごせるだろう。
どうにかこうにか必要とされるために神経を尖らせて、表に出ても許されるようにと努力をしているけれど、ふとした瞬間に失敗して、すべて無意味になる。私は必要じゃない。邪魔でしかない。私ができることは誰にでもできる。他人が当たり前にできることが私にはできない。別の人がいた方が良いに決まっている。
他人のイライラした顔や不愉快を示す姿が頭にはりついて身動きが取れない。

できないくせにみっともなく人間のふりをしている。
それをよしとして自分のやりたいように振る舞う図太さも突出した能力も無い。
そもそも私は間違っているから、能力を得ようとする資格すらない。それなのに、身の程を知らず行動しようとする。あざ笑われるに決まっている。

絶対にいないほうがよかったのに存在してしまったがために、消えることですら人に迷惑をかけるから、惰性で息をしている。

好きなものは隠そう

自分の好きなものを、否定されて当然だと思っている節がある。
そんなものを好きでいたらいけなくて、本当はもっと大勢が好きなもの(あるいは、そういうことになっているもの)を好きであるべきだという考えが根底にある。
どんなに素敵なものでも、私が好きでいるせいで、私がいる空間においてそれは取るに足らないもの、馬鹿にしても良いものになる。

いつも脳内で言い訳をして自分の好きなものを否定している。こんなものが好きですみません。皆様の好きなものの知識が無くて申し訳ありません。ええ、たいしたものじゃないんです。皆様の言う通りです。年相応でなくてすみません。この話はやめましょう、皆様の好きなものの話をしましょう。そちらのほうが楽しいでしょう。私の、どうでもいいもののことなんてどうでもいいんですから。ね、いつ出かけられたんですか?へえ、それは楽しそうですね!

いかに嫌み無く、へらへらと話すか。そればかりを考えている。何故ならそれは実生活で遭遇しうる状況だからだ。そのとき、動揺せず、周囲に不快な思いをさせず、笑い話、異なる価値観を否定することで成り立つコミュニケーションを継続させるためのシミュレーション。

怒ることができたら、少しは周りの態度は変わるのだろうか。私の好きなものは尊重されるだろうか。私の機嫌が悪くなったところで、何の支障もない人たちだからなにも変わらないだろう。私に不都合が増えるだけだ。異なる価値観同士がぶつかったとき、どちらかが折れない限り、表立って不愉快なコミュニケーションになる。折れるべきは私だ。

隣にそれがあるだけで、こんなにも気持ちが穏やかになるのに、私はそれを否定し続けなくてはいけないのか。好きなものへの後ろめたさがつのる。きっと本当に好きなものは隠しておくべきだ。誰にも踏みつけにされないように。
魑魅魍魎に対して、本名を名乗ってはいけないのと似ている気がする。
本当に大切なものを、得体の知れないものに知られてはいけない。

好きなものくらい、ただ好きでいさせてほしい。

多分ほしいと願う時点で違うのだろう。何かを好きであることは、誰かに知られる必要も許可をとる必要もないはずだ。他人への依存が激しい。すぐ許可を取りたがる。
それが自分を苦しめていることは分かっているのに、脳に思考が染み付いていて私を他人から切り離せない。気づくたびやめていくしかないことも分かっている。

ひとまず否定されるシミュレーションをやめることを目指そう。そのとき私の好きなものの否定は私がしている。もう誰にも面と向かって好きなものの話はしないことにすれば、シミュレーションも必要ない。

誰も尊重してくれないのだから、私くらい、私の好きなものを尊重したい。

根拠

私は私の好きなことで褒められたことがないのでは?ということに気づいてしまった。

褒められたこと自体はある。堅実であること。将来苦労をしないために、準備を進めること。ルールを守り、派手な振る舞いをしないこと。反抗期がなかったこと。身の程を弁えて、できないことはしないこと。
これらのことはよく褒められた。

絵を描くことも、小さな生きものへの興味も肯定されたことがない。小さい頃からずっとそういうものが好きね、と事実を伝えられることはあっても、それが認められたことはない。むしろ、幼い時から変わらないこと、年相応でないことを責められているきらいがある。ああこの辺りが、「こんなことをしている場合じゃない」という焦りにつながるのか。

親から肯定されなくても、他の場所で肯定されていれば、もっとましだっただろうか。学校だろうがその他の場所であろうが、私はいつも評価に値しなかった。好きなことなら努力できるでしょう?そして評価されるでしょう。そうか。じゃあ私は好きじゃなかったんだろうか。評価されている人々と比べたら、技術もないし、詳しくもない。その人たちと比べたら、私は好きじゃないのかもしれない。

安定した生活がおくれなさそうな事柄に関して、家族の理解が得られないというのは、得てしてあり得る平凡な話だ。それでも頑張れる人たちには、確固たる自我があるのだと思う。反対を振り切っても愛してもらえるという自信や、自分自身のために生きることへの抵抗の無さ。他人の意見は自分の人生には関係がないという区切りの認識。

私は私が好きなことすら自分一人で決められない。自我がない。外側からぐちゃぐちゃに押されて、穴だらけになっている気がする。私はどうしたいんだろう。好きなはずのことで、何か形にできたなら少しは変わるだろうか。その好きなはずのことをするのが、何よりもこわくて手が震える。四六時中見張られていて、責められている気がしてしまう。褒められることじゃないからだ。誰も望んでいないことに、私は時間を浪費していいのか。
私を楽しくするための行動が、とても無駄なことに思える。
多分無駄じゃないのになあ。いつか私が楽しくなるために、他人が何の得もしないことを積み重ねていくこと。想像しただけで、なんて甘美なのだろう。


「いつか私が楽しくなるために、他人が何の得もしないことを積み重ねていく」…悪魔的な響きを持っている。これに加えてできないことを責めずに、試行錯誤だけができれば、幾分気分が良さそうだ。他人の意見は私には関係ない。私は私として私だけで好きなことをしていい…どうしよう、今すごくほっとしてしまった。

自立に失敗した

多分こうして欲しいんだろうな、というのを察して、ずっとその通りにしてきた。

常に弟と比べられていた。勉強は私の方ができた(というか、頭が良くないくせに教科書を丸暗記してできる振りをしていた)。人当たりと容姿は、弟の方がよかった。
行くところのない私は、家にいるから比較を耳にすることが多い。
「湯気はちゃんと先を考えて勉強していたけど、弟はしなかったから慌てることになる」「湯気は体力がないから電車通学できないけど、弟はできるからまだよかった」「弟は早く家を出て苦労した方がいい。湯気は一人で生きていけないでしょう」「湯気は就職しやすい大学に進んだのに、弟はこれからどうするんだか」

ええその通りですね。私は一人で生きてはいけないのでしょう。だから見捨てられないように息をひそめて過ごしました。家から近いそこそこの学校に、努力せず(努力して入ると後が辛いので、背伸びをしてはいけないというのが家訓です)に推薦で入って、たまに教科書を丸暗記して、頭のいい振りをしました。実家から通えるところにある、安定した職につきました。肩書きだけなら、姿を見せないのなら、このクソ狭い窮屈な日本でなら、自慢できる娘だと思います。
愛想が悪いこと、着飾らないことは、母の「私もそうだったから」という言葉で変えてはいけないものになりました。私は母と瓜二つだから、思い通りにならない弟と、自分中心で「家族」の肩書きさえあれば満足そうな父に挟まれて、私まで母にとって居心地の悪いものになってしまったら母が不憫すぎるから。

全部ぶちまけてしまいたい。ずっと私が望んだ通りにしてきたと思っていたでしょう。私の望みと、貴方達の望みが一致していると思っていたでしょう。たくさんお金を出してくれました。世話もしてくれました。でもね、私は何一つやりたくなかった。苦しかった。馬鹿馬鹿しい夢をたくさん見ました。望まれてないと思うと何も手をつけられませんでした。芽が出る前に踏みにじりました。全部貴方達のせいです。

ガラスのコップとか叩き割って、その上に拳を振り下ろして血まみれになりながら大きな声で言いたい。
……しらけるんだろうなあ。私が自分で決めたことだと思われているから。こうして欲しいんでしょう、と私が察して、そうしたことは、私が決めたことだから。
それで、怒られるんだろう。そんなこと言われたら、何も言えなくなるって言われるんだろう。

そもそも全部ぶちまけて、謝ってもらって、好きにするための許可が欲しいと思っている時点で救いがない。

他人から許可をもらっていたら、何度も許可をもらえているのか確かめなくてはいけなくなるし、本当は誰にもぶちまけなくても、許可をもらわなくても好きにして良いはずなのに。

根強いなあ。