ねえ、

日記

別の人のほうがよかった

常々、私じゃなくて別の人ならよかったのにね、と思っている。
私が私でよかったと思ったことなど一度も無いし、私がいることで利益を得た人も一人もいない。損害はあると思う。
私と関わっている人は、私がいなければその時間別の人と関われていて、私が今いるポジションにも別の人が収まって、もっと円滑に、不快な思いをせず過ごせるだろう。
どうにかこうにか必要とされるために神経を尖らせて、表に出ても許されるようにと努力をしているけれど、ふとした瞬間に失敗して、すべて無意味になる。私は必要じゃない。邪魔でしかない。私ができることは誰にでもできる。他人が当たり前にできることが私にはできない。別の人がいた方が良いに決まっている。
他人のイライラした顔や不愉快を示す姿が頭にはりついて身動きが取れない。

できないくせにみっともなく人間のふりをしている。
それをよしとして自分のやりたいように振る舞う図太さも突出した能力も無い。
そもそも私は間違っているから、能力を得ようとする資格すらない。それなのに、身の程を知らず行動しようとする。あざ笑われるに決まっている。

絶対にいないほうがよかったのに存在してしまったがために、消えることですら人に迷惑をかけるから、惰性で息をしている。

好きなものは隠そう

自分の好きなものを、否定されて当然だと思っている節がある。
そんなものを好きでいたらいけなくて、本当はもっと大勢が好きなもの(あるいは、そういうことになっているもの)を好きであるべきだという考えが根底にある。
どんなに素敵なものでも、私が好きでいるせいで、私がいる空間においてそれは取るに足らないもの、馬鹿にしても良いものになる。

いつも脳内で言い訳をして自分の好きなものを否定している。こんなものが好きですみません。皆様の好きなものの知識が無くて申し訳ありません。ええ、たいしたものじゃないんです。皆様の言う通りです。年相応でなくてすみません。この話はやめましょう、皆様の好きなものの話をしましょう。そちらのほうが楽しいでしょう。私の、どうでもいいもののことなんてどうでもいいんですから。ね、いつ出かけられたんですか?へえ、それは楽しそうですね!

いかに嫌み無く、へらへらと話すか。そればかりを考えている。何故ならそれは実生活で遭遇しうる状況だからだ。そのとき、動揺せず、周囲に不快な思いをさせず、笑い話、異なる価値観を否定することで成り立つコミュニケーションを継続させるためのシミュレーション。

怒ることができたら、少しは周りの態度は変わるのだろうか。私の好きなものは尊重されるだろうか。私の機嫌が悪くなったところで、何の支障もない人たちだからなにも変わらないだろう。私に不都合が増えるだけだ。異なる価値観同士がぶつかったとき、どちらかが折れない限り、表立って不愉快なコミュニケーションになる。折れるべきは私だ。

隣にそれがあるだけで、こんなにも気持ちが穏やかになるのに、私はそれを否定し続けなくてはいけないのか。好きなものへの後ろめたさがつのる。きっと本当に好きなものは隠しておくべきだ。誰にも踏みつけにされないように。
魑魅魍魎に対して、本名を名乗ってはいけないのと似ている気がする。
本当に大切なものを、得体の知れないものに知られてはいけない。

好きなものくらい、ただ好きでいさせてほしい。

多分ほしいと願う時点で違うのだろう。何かを好きであることは、誰かに知られる必要も許可をとる必要もないはずだ。他人への依存が激しい。すぐ許可を取りたがる。
それが自分を苦しめていることは分かっているのに、脳に思考が染み付いていて私を他人から切り離せない。気づくたびやめていくしかないことも分かっている。

ひとまず否定されるシミュレーションをやめることを目指そう。そのとき私の好きなものの否定は私がしている。もう誰にも面と向かって好きなものの話はしないことにすれば、シミュレーションも必要ない。

誰も尊重してくれないのだから、私くらい、私の好きなものを尊重したい。

根拠

私は私の好きなことで褒められたことがないのでは?ということに気づいてしまった。

褒められたこと自体はある。堅実であること。将来苦労をしないために、準備を進めること。ルールを守り、派手な振る舞いをしないこと。反抗期がなかったこと。身の程を弁えて、できないことはしないこと。
これらのことはよく褒められた。

絵を描くことも、小さな生きものへの興味も肯定されたことがない。小さい頃からずっとそういうものが好きね、と事実を伝えられることはあっても、それが認められたことはない。むしろ、幼い時から変わらないこと、年相応でないことを責められているきらいがある。ああこの辺りが、「こんなことをしている場合じゃない」という焦りにつながるのか。

親から肯定されなくても、他の場所で肯定されていれば、もっとましだっただろうか。学校だろうがその他の場所であろうが、私はいつも評価に値しなかった。好きなことなら努力できるでしょう?そして評価されるでしょう。そうか。じゃあ私は好きじゃなかったんだろうか。評価されている人々と比べたら、技術もないし、詳しくもない。その人たちと比べたら、私は好きじゃないのかもしれない。

安定した生活がおくれなさそうな事柄に関して、家族の理解が得られないというのは、得てしてあり得る平凡な話だ。それでも頑張れる人たちには、確固たる自我があるのだと思う。反対を振り切っても愛してもらえるという自信や、自分自身のために生きることへの抵抗の無さ。他人の意見は自分の人生には関係がないという区切りの認識。

私は私が好きなことすら自分一人で決められない。自我がない。外側からぐちゃぐちゃに押されて、穴だらけになっている気がする。私はどうしたいんだろう。好きなはずのことで、何か形にできたなら少しは変わるだろうか。その好きなはずのことをするのが、何よりもこわくて手が震える。四六時中見張られていて、責められている気がしてしまう。褒められることじゃないからだ。誰も望んでいないことに、私は時間を浪費していいのか。
私を楽しくするための行動が、とても無駄なことに思える。
多分無駄じゃないのになあ。いつか私が楽しくなるために、他人が何の得もしないことを積み重ねていくこと。想像しただけで、なんて甘美なのだろう。


「いつか私が楽しくなるために、他人が何の得もしないことを積み重ねていく」…悪魔的な響きを持っている。これに加えてできないことを責めずに、試行錯誤だけができれば、幾分気分が良さそうだ。他人の意見は私には関係ない。私は私として私だけで好きなことをしていい…どうしよう、今すごくほっとしてしまった。

自立に失敗した

多分こうして欲しいんだろうな、というのを察して、ずっとその通りにしてきた。

常に弟と比べられていた。勉強は私の方ができた(というか、頭が良くないくせに教科書を丸暗記してできる振りをしていた)。人当たりと容姿は、弟の方がよかった。
行くところのない私は、家にいるから比較を耳にすることが多い。
「湯気はちゃんと先を考えて勉強していたけど、弟はしなかったから慌てることになる」「湯気は体力がないから電車通学できないけど、弟はできるからまだよかった」「弟は早く家を出て苦労した方がいい。湯気は一人で生きていけないでしょう」「湯気は就職しやすい大学に進んだのに、弟はこれからどうするんだか」

ええその通りですね。私は一人で生きてはいけないのでしょう。だから見捨てられないように息をひそめて過ごしました。家から近いそこそこの学校に、努力せず(努力して入ると後が辛いので、背伸びをしてはいけないというのが家訓です)に推薦で入って、たまに教科書を丸暗記して、頭のいい振りをしました。実家から通えるところにある、安定した職につきました。肩書きだけなら、姿を見せないのなら、このクソ狭い窮屈な日本でなら、自慢できる娘だと思います。
愛想が悪いこと、着飾らないことは、母の「私もそうだったから」という言葉で変えてはいけないものになりました。私は母と瓜二つだから、思い通りにならない弟と、自分中心で「家族」の肩書きさえあれば満足そうな父に挟まれて、私まで母にとって居心地の悪いものになってしまったら母が不憫すぎるから。

全部ぶちまけてしまいたい。ずっと私が望んだ通りにしてきたと思っていたでしょう。私の望みと、貴方達の望みが一致していると思っていたでしょう。たくさんお金を出してくれました。世話もしてくれました。でもね、私は何一つやりたくなかった。苦しかった。馬鹿馬鹿しい夢をたくさん見ました。望まれてないと思うと何も手をつけられませんでした。芽が出る前に踏みにじりました。全部貴方達のせいです。

ガラスのコップとか叩き割って、その上に拳を振り下ろして血まみれになりながら大きな声で言いたい。
……しらけるんだろうなあ。私が自分で決めたことだと思われているから。こうして欲しいんでしょう、と私が察して、そうしたことは、私が決めたことだから。
それで、怒られるんだろう。そんなこと言われたら、何も言えなくなるって言われるんだろう。

そもそも全部ぶちまけて、謝ってもらって、好きにするための許可が欲しいと思っている時点で救いがない。

他人から許可をもらっていたら、何度も許可をもらえているのか確かめなくてはいけなくなるし、本当は誰にもぶちまけなくても、許可をもらわなくても好きにして良いはずなのに。

根強いなあ。

何かを頑張ろうとしたときに張りつく不安について

 もう色々と無理じゃない?と、漠然と思った。
同じ空間を、ずっとぐるぐる回っている気がする。前に進んでいる感じがしない。気がつくと「こんなことしてる場合じゃないどうしようどうしようこんなことしてる場合じゃなくてもっとできてなくちゃいけないのにどうしようどうしよううわあああああああもう無理寝よう」というのを繰り返している。
もう何も考えたく無さすぎて、人生で始めて丸一日寝てしまった。寝ている間は何も考えなくていいからとても楽だ。何も解決しないのだけれど。
一度味を占めてしまったから、常にとても眠い。寝たさがすごい。

一足飛びで何かができるようになることなんて多分なくて、小さな積み重ねを繰り返していくしかないことは分かっているつもりなのだけれど、「こんなことしてる場合じゃない」という考えは強固だ。
「こんなこと」を積み重ねていかないと、「もっとできるように」はならない。年をとれば、それだけ積み重ねてきたものと見なされる。私はそこに至っていない。
だから、私ははやく「もっとできるように」ならなくてはいけない。
なのに、「こんなこと」の方向性があっているかどうかは、積み重ねてみないと分からない。正解が分からなくて、不安で何も手に付かなくなってしまう。

こういう話をすると、「努力が足りない」とか「あの人はもっとやっている」とか「そもそも本当にやりたいことなら楽しんでできるようになるはず」とかそういう反応が返ってくる。

努力が足りないのも、もっとやっている人がいるのも、分かっている。けれど、そういう言葉でできるようになるか?というと、やっぱり不安と劣等感が張りつくだけだ。本当にやりたいことならちゃんとできるはず、と言われてしまったら、もう何も言えない。やりたいことかなんて分からない。理想だけはある。

できる人や成功した人と比較されたり、「年相応」という基準を定められてしまうと苦しくなる。この辺がもう色々と無理だ。外の世界とはやっていけない。
比較されると(というか自分で比較しにいってる気がしてきた)こんなことしてる場合じゃないとなってしまうから、完全に引きこもっていくしかない。なにせ健康体なので、事件や事故に巻き込まれなければ、まだ寿命は遠い。何かをするにはもう手遅れなのに、諦めて過ごすには長過ぎる。
世の「できる人」にも、「年相応」にも到底敵わないから、そこは見ないようにして、自分の中でだけ比較していくしかない。井の中の蛙と馬鹿にされるとしても、そうしないととてもじゃないけど生きていけない。
そもそも、何かをできるようになるために、楽しさを感じなければいけないという決まりはあるのだろうか。ただただトライ&エラーを繰り返しさえすればいいんじゃないの。

……と、散々色々文句を言ったけれど、「努力が足りない」も「あの人はもっとやっている」も「年相応」も「本当にやりたいことなら楽しんでできるようになるはず」も「井の中の蛙と馬鹿にされる」も、全部私が自分で思っていること。滑稽極まりない。
私が無能であること、愚図であることを証明する出来事だけがたくさんある。できたことがないから、できるとはとてもじゃないけど思えない。できると思うためには、できたことがなくてはいけないのに。……卵が先か鶏が先かみたいな話になってきた。

私に対する思考が邪魔だ。答えは分かっているのだ。やったことに対する結果だけみて、改善点を探し、改善策を立てて、もう一回やってみる。それを繰り返すだけでいい。事象だけをみればよくて、私のことを考える必要はない。比較するのは過去の事象とだけで、他人も年相応も必要ない。なんかすごい捻くれた思考のように思えるのだけれど、また「その根性が気に食わない」的な話を始めて突き詰めると「楽しさを感じながら他人よりも努力をし年相応の能力を身につけなければならない」に戻ってきてしまうのでキリがない。

やってみたら→こうなった→予想との差異確認→どうすれば近づくだろうか→こうかも→やってみる(繰り返し)
よし。一旦これで行ってみよう。ここに「なんで差異があるの!!!!!」という気持ちが入ってくると元の木阿弥なので、そこの感情は意識して殺していこう。

メリットを述べよ

私の好きな作品がテレビドラマ化する企画が立ち上がっているそうだ。
まだ監督と交渉中で、決まったわけではないそうなのだけれど、そのニュースを知ったとき、頭の中でポップコーンがはじけるような感覚があった。

多分、心が躍るとかそういう感じの感覚だ。

だって、あの作品は完璧なのだ。1ページどころか、1コマも無駄なところはなく、絵で作中の時間の経過や登場人物たちの関係を見せ、構成は挑戦的で、最後まで読み終わったところでもう一周せざるを得ない完璧な作品だった。

映画化されたときは、あの「漫画だからこそできた表現」を、映像化すべく製作者たちが知恵を絞り、挑戦していることが分かった。作品への尊敬が伝わってくる愛すべき作品になっていた。数十年の時を経て製作されたスピンオフコミックは、作家達の各キャラクターの解釈が面白く、わかるわかる、え?そうくる?と、ファン同士で会話をしているような感覚が持てる(図々しい)ので、とても大切にしている。

話が抽象的すぎるけど、とにかく、それがテレビドラマ化するということは、また新しい解釈のその作品を観られるということで、私はそれまでちゃんと生きる必要があるということだ。

そこまで考えたところで、「あなたが生きたいというだけで、生きてていいと思ってるの???周りになんの恩恵ももたらさずに、「○○したい」という個人的な欲求を認めてくれるほど世の中甘くないんだよ????あなたが生きていることによるメリットはあるの????」と、私の中の人が冷や水を浴びせてきた。ポップコーンもしおしおだ。

私じゃない方がよかっただろうなあ、と思う出来事が多すぎて、私は私が存在していることのメリットを打ち出せない。私じゃなくて、もっと快活で、頭が良くて、ほがらかで美しい人が今私がいるところにいれば、家族も職場も、かつて所属していたクラスや部活といった空間も、もっとハッピーだったはずだし、人々も楽しく過ごせただろう。

でも残念ながらいるのは私なのだ。快活で、頭が良くて、ほがらかで美しい人にはどうしてもなれない私なのだ。ただでさえ、不穏な空気をまき散らすだけの汚物なのに、これで不自然な死に方をした日には、死んでまで迷惑をかける人になってしまう。

そうすると、私は生きるしかないし、いやそもそもテレビドラマ化するまで全然死にたくないし、誰だよメリットがないと生きていちゃいけないとか言った奴は。

……私か。

私は私が生きているだけでテレビドラマ観られるし、好きな漫画も読めるし、映画も観られるしハッピーだろうがと、思うん、だけ、ど。それは私利私欲だから。メリットとは呼べない。

多分この感覚は、かっこ良く言うと「認知の歪み」とか「自己肯定感の低さ」とか呼ばれるものな気がするけど、歪んでない人間様は通り一遍の考え方をするのかよとか、肯定できる要素なんて何一つないんだよボケがとかなんかもうそんな感じなので、一旦考えるのをやめたいと思います。以上。

感想とか寄せ書きとか本当に困る

四半期に一度くらい、出会いと別れの季節(卒業とか異動とか)を意識することになるのだけれど、意識するだけでそれに付随して感情が動くことがないなあ、と思う。
いや、感情がないわけじゃないと思うんだけど、なんというか、それを言い表すことができない。

そもそも、未だに毎年年賀状をやりとりするような友人に対しても、気の利いたコメントが思い浮かばず「去年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします。」と哀愁漂う字(友人評)で書く始末だ。いやめっちゃお世話になったし、よろしくお願いしたいと思ってる。同じ文面でも、義理で仕方なく返す年賀状とは違う心持ちの「去年はお世話になりました。今年もよろしくお願いします。」だ。
うん。やっぱり、気持ちを表現する術を持っていないだけで、気持ちはある気がする。

年賀状もそうだし、寄せ書きやはなむけの言葉的なものも、周囲はいつも気の聞いた言葉や、対象の人との関わりを元にしたいい感じの言葉を用意していて感心する。私は「お世話になりました。これからもお体に気をつけて頑張ってください。」くらいしか言えない。汎用性が高すぎる。

気の利いた言葉が、自分に向けられたときも驚いてしまう。ええ、そんなこと確かにありましたね。でもまさか、そんなふうに思っていただいていたとは恐縮です。いや、ほんとに、人付き合いが悪くて、ろくな人間じゃないのに人間扱いしていただいてすみません。多分そのコメント、めっちゃ絞り出してくれてますよね。本当にすみません。そんなことを思いながら「えへへすみませんありがとうございます。こちらこそお世話になりました」。だからコメントの汎用性が高すぎるよ。

何故にこうも表現が乏しすぎるのかな。子どものとき、読書感想文や遠足の感想文でも困ってたな。何も思いつかないんだもの。読書感想文に至っては、結構頑張って絞り出して書いたんだけど「読書感想文を書けっていったのに紹介文を書いてきた奴がいる」ってクラスの皆さんの前で教師に吊るし上げられた記憶がある。確か、本のあらすじをざっと書いて、ここから先は乞うご期待!面白いから皆読んでね的なことを書いた気がする。いや確かに紹介文っちゃあ紹介文なんだけど。面白いから皆に読んで欲しいは感想じゃないのか。

じゃあどういう読書感想文が正しかったのかというと、「本のあらすじを書き、その上で特に自分が心動かされたエピソードを抜き出し、そのエピソードに関連づけて自分の心境の変化を語る」ものらしい(さっきぐぐった)。

嘘でしょ?さあ読書感想文を書いてみましょう!例はこれです!(教科書に載ってたサンプル1つ)でこれができるの?え?もう一回言うけど、嘘でしょ?

…私の飲み込みの悪さは一旦隅においといて、これに則って当時読んだ本の読書感想文を書こうとするとどうなるか考えてみる。

本のタイトルは忘れてしまったけれど、確か大切なものと引き換えに願いを叶えてくれる伝説の湖があって、それを目指して冒険するファンタジー小説だった。
主人公の女の子はゴツくて豪腕で、斧とかぶんぶん振り回せるのだけれど可愛い女の子になりたくてその湖を目指す。道中、めちゃくちゃ美人で盲目の魔法使い(性格はきつめ)と、身体が弱くて重たい剣を持てないから、樫の木でできた剣を使っている剣士と…あとなんか…おじいさんが居た気がする…が同じ湖を目指す仲間になって、一緒に危機を乗り越えていく。

もう、全然読書感想文に向いてない話だ。もっと実話に基づいたやつとか、せめてファンタジーじゃなくて現実世界の話のほうが絶対「エピソードに関連づけて自分の心境の変化を語る」がやりやすかったのでは。

まあいいや。とにかくそんな話で、私はすごく好きで、何度も読み返してたしずっと持ち歩いていた(結構分厚かった)。

初登場時はどの登場人物も、捻くれていて、お互いの持っていないものに対して嫉妬をしあっていて、自分の持っているものなんていらないと思っていた。捻くれているから誰からも嫌われていて、利害関係だけで一緒にいる状態だった。確か願いを叶えられるのは一人だけで、お互い出し抜こうとする思いすらあった気がする。それが、危機を乗り越えていく中でお互いの力でお互いを助けることができたりして、自分の持ってるものって結構捨てたものじゃないんじゃない?と思えたり、いつの間にか自分の無事より仲間の無事を祈るようになっちゃたりして。失って困るものなんてないと思っていた登場人物達は、お互いが大切な存在になっていて、自分のことも嫌いじゃなくなるのだ。そして願いを叶える必要なんてない、今のままでいい、と思えるようになる。

私はできないことがたくさんあるという自覚があって、さらに思いもよらぬところで他人より馬鹿であることに気づいて凹むことも多かった(この読書感想文のこともその一つ)ので、おそらくこの捻くれた登場人物達と同じだったのだ。だから、さくっと願いを叶えて望み通りの自分にしてくれる湖を目指す気持ちも分かるし、望み通りの自分じゃなくても、誰かと心を通じ合わせることができて、自分のことが嫌いじゃなくなる姿に憧れ、ほっとしていたのだ。できないことや嫌いなところに注目するのではなくて、できることに目を向けることで嫌いだったところも好きになれて、他人に何を言われようが立っていられるようになるなんて、なんて眩しい未来なんだろう。

…これは結構読書感想文になったんじゃなかろうか。「私はできないことがたくさんあるという自覚があって、さらに思いもよらぬところで他人より馬鹿であることに気づいて凹む」の部分に関してもっとたくさん具体的なエピソードを書けば、完全なる読書感想文に違いない。
ちなみにこれを一言でまとめると、「超面白いから皆読んで」になるのでやっぱり子どもの私は間違っていなかった…とはいえども、さすがにまとめすぎて具体性に乏しく求心力がない。「もうすこしがんばりましょう」であることは確かだ。

ただ、この感想文を、私のことを知っている不特定多数に晒すことができるかというと、それは難しい。認めてくれる可能性の低い(むしろマウンティングしてくる可能性のほうが高い)他人に対して弱点と自信のなさを晒すことになる。少なくとも、「紹介文を書いてきた奴がいる」と吊るし上げた教師やその言葉を受けて笑う同級生に対して晒さなかったことは正しい選択だ。

冒頭の話に戻る。感情を言い表す言葉が見つけられないのは、多分傷つけられるのが恐ろしいからだ。気持ちがなければ傷つけられることがないからといつの間にか奥に奥にと気持ちを追いやる癖がついた。
辛いことも楽しいことも、全部ぐっと押さえて何事もないかのように対応することは、結構意識して取り組んでいる。

幼い頃、たまごっちで可愛がっていたくちぱっちが病に倒れ死んでしまったとき、パニックになって泣いた。病気になってから死ぬまで、若干の時間があったのが辛さを倍増させた。死ぬまでの間、苦しむくちぱっち(しかも病気のマークがいつもと違うマークになっていて、手の施しようがないことが嫌でも分かった)をどうすることもできずに見ていることができなくて、たまごっちの機械を座布団と座布団の間に挟んでただただ時がすぎるのを待った。のちに(と言っても、子どもの頃だけど)母にはゲームと現実の区別がついていない、と言われた記憶がある。

それから幾分か時がすぎて、飼っていた金魚が死んだ。前日、いつもより食欲がない気がして、気のせいかな、と思ったのだけれど次の日には横向きになって、手の施しようがなかった。呼吸をしなくなるまで、ずっと水槽の前で励まし続けて(金魚的にはとても迷惑だったと思う)、前日に病院に連れて行けば大丈夫だったかもしれないのにと後悔した。
悲しさよりも、後悔の念が強くて、涙は出ず呆然とした。その様子を見た母は、「金魚が死んだのに泣かないなんて、命を軽く見ている。ゲーム(たまごっち)のせいだ」というようなことを言っていた。
私は確かに悲しかったけれど、泣かないのならば悲しんだことにはならないらしかった。悲しいよ、涙は出てなくても、と言ったところで、もはやたまごっちを庇う言い訳にしかならないのが分かっていたからそのまま何も言わなかった。

本を読んだり、ゲームをしたりしていて、楽しい気持ちになったときにはうっかり笑ってしまうことがあったのだけれど、何一人で笑ってるの?気持ち悪いと弟に言われたので、人が側にいるときは、心を動かさないように心がけた。

そんなふうに生きていたら、祖母が亡くなったとき、「悲しいと思ってるの?」と面と向かって父に聞かれた。「思ってるよ」とだけ答えた。「仲良くしてくれていた人がこの世からいなくなってしまったことを、悲しいと思ってないと思ってるの?それを本人に訊くの?ひどいよ」と、本当は言いたかった。
お葬式で少しだけ涙が出てしまった時は、「血も涙もないのかと思ってた」と親戚が言っていたらしい。それを私に伝える母の気持ちを考えると、本当に申し訳なかった。

言葉も表情も、全部、他人に理解されるために使うものだ。

他人の「こう思っているだろう」という予測に添った正しい感情表現をする。イメージでいうなら音ゲーが近いだろうか。弾(他人の予測)が流れてきて、それに対して絶妙なタイミングでボタンを押す(感情を動かす)。
そうすると、goodとかexcellentとかbadとか、そういうのをまた他人が返してくるのだ。それを何も出さないのだから、理解されないのは当然だ。そういう前提のもとであれば、私は泣く必要があったし、一人で楽しい気分になった時に表情を変える意味はなかった。もっと気軽なテーマの本で感想文を書けばよかった。

本当の私の気持ちなんて関係がなくて、ただのそういうやりとりのためだけに言葉も表情も使えれば、もっと楽に生きられるのだろう。
けれどそれができなくて、私は私の本当の気持ちを言葉や表情にしていたから、
他人からのbadに傷つけられることになって、傷つかないために、試合を放棄して流れてくる弾を全部見逃して棒立ちをすることになった。気持ちを表すことにブレーキがかかるのだ。

一言(でもちょっと長い)で言うならば、「全部本当のことを言うのでも全部他人の期待通りにするのでもなく本音と建前をてきとーに織り交ぜて生きていくのが一番楽なのではということを最近意識し始めたけどマジ難しすぎ」ということ。
完全に試合を放棄して何も感じないことにするのではなくて、これは全部建前ですから、とぶよぶよした半透明の膜に自分を包んで思ってもいない聞こえのいいことを言って、自分の気持ちを守っていく。本当のことなんて言っていないのだから、傷つく必要はない。そういう図太さを持つことで、本当の気持ちに思いを馳せる余裕を作っていきたい。